第四回(2018/10) 大阪発「民生委員」100年
民生委員という仕組みを知っていますか。大阪で生まれたこの制度が、今月で100周年を迎えました。始まりは、前年の岡山県「済世顧問」とともに、1918(大正7)年10月に大阪府が新設した「方面委員」です。これには有名なエピソードがありますが、わたしは赴任後に知りました。
当時の大阪府知事・林市蔵が、街で夕刊を売る40歳代の母親と女児に目をとめ、夕刊を1部買って声をかけました。そして最寄りの交番に母子の家庭状況を調べるよう頼みます。数日後、巡査から報告が来ました。夫が病に倒れた主婦は3人の子どもを抱え、夕刊売りでやっと生計を立てていたのです。学用品を買えない子どもたちは、学校にも通っていません。
林は自らの貧しかった幼少期や苦学時代を思い、折からの米騒動などの世情には、救貧制度が緊急に必要と痛感しました。ドイツのエルバーフェルト・システムを参考に新制度を考案し、府庁に救済課を設置したのです。方面委員は、担当する小学校区内の住民の生活状態を調査し、結果をもとに要援護者を救済します。潜在ニーズをとらえ適切な社会資源と結びつけるわけです。
この画期的な業務モデルを、創設した知事が自ら示しました。その後、1936(昭和11)年に「方面委員令」が制定され、大阪独自の仕組みが全国制度になりました。戦後は1948(昭和23)年に「民生委員法」として更新され、2000(平成12)年の法改正(名誉職から、地域福祉の推進者へ)を経て現在に至ります。ちなみに「民生委員の父」林知事の銅像が大阪市内にあります。
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