第十四回(2019/08)「大大阪時代」と寄附文化

 若いころに泊りがけで、大阪府内市町村の職員研修で講師をしたことがある。奈良女子大学の澤井勝名誉教授に誘われ、地方分権の前夜だった。このとき研修生から聞いた逸話が心に残る。小学校で上履きにはきかえる作法は関西で始まったという。京都の「番組」地域などでは、国の学制施行に先駆けて小学校を市民の寄附で独自に設立した。

 つまりその校舎は、税の公費による施設ではなく、市民の浄財による共有財産だから汚さないのだ。身銭を切ってこその自治だろう。だとすれば、関西には自治の源泉というべき寄附文化があるのではないか。大和大学に赴任してからも、この話が気になっていた。以下、折に触れて自ら調べ、関西での同僚たちと話し合ったことをまとめてみよう。

 江戸期の大阪(当時は「大坂」と表記)では、「キタノウ貯めて、キレイニ使う」のが美徳だったそうだ。商いのソロバン勘定と公共の支出とを区別する価値観である。大商人はえげつないほどに商売の無駄を省き、倹約を重ねて元手の資本を蓄える。しかし商いから離れれば、世のため人のために活財するのが町方の器量だ。現に大阪の八百八橋は町人の寄附で作られたという。あの道頓堀も安井道頓の私財による開削だった。

 寄進は明治にも続いた。中ノ島の公会堂のほか、同図書館、美術館、小学校など多くの公共施設は市民の寄附による。やがて関東大震災での移住と市域の拡張とによって、大阪は人口210万を超え、東京を抜いて日本一の大都市になった。「大大阪時代」の開幕だ(写真)。しかし、大恐慌の打撃や第二次大戦の戦禍で、疲弊した商都・大阪の中枢機能は関東に移る。お役人サマの直轄地でもある江戸東京では、この公共精神が「下りもの」(下らぬもの)とされ、各地に広がりにくくなった。今も東京に自治や寄附文化は希薄なままだろう。

 ちなみに、2025年万博の総工費1250億円のうち、400億円を経済界が負担する。関西の経済3団体は、企業ごとに額を割り当てる「奉加帳方式」で資金を調達するという。この方式のルーツは実に奈良朝までさかのぼる。仏僧が奉加(ほうが)として民間から寄附を募った勧進である。治水・利水や橋梁・道路などを建設する公共事業の原資として集め、奉加した人たちの一覧リストを「奉加帳」と呼んだ。(写真は大阪歴史博物館所蔵)