第十五回(2019/09)行政責任論争のラスボスか?

 関西の大学に通い始めて、ふいに気づいたことがある。予想外の「見聞」だろう。長く疑問に感じながらも、容易には解けない深い謎だと思い込んできた問題だ。それは、行政学における著名な「行政責任論争」である。ちなみに、アメリカ人のフリードリヒとイギリス人のファイナーという、二人の行政学者の頭文字をとってFF論争ともいわれる。

 民主主義国において主権者は国民である。政治家はその代表者である。そして行政は主権の代行者という位置づけになる。代行者は、必ずしも代表機能を代行するのではない。政治の代行とはおおむね忖度行政に行きつくものだろう。代行者としての行政の責任について、すでに述べた名高い論争がある。本人―代理人の観点からすれば、だれが本人かという問題だ。

 行政責任は二種類に別れていて、間接的なものと直接的なものとがある。まず間接責任とは、間接代表としての議員が構成する議会に対するものである。ファイナーが指摘するように、議院内閣制のもとで「X(行政)はY(事項)についてZ(議会)に説明する責任がある」のだ。そして直接責任とは、主権者に対する直接的なそれである。フリードリヒの主張によれば、大統領制のもとで「民衆感情」(Popular sentiment)に応答的なことだ。

 そうだとすれば、この論争は永遠に交わらないわけではない。むしろ行政責任は一直線の上にある。すなわち代行者としての行政は、第一義的には代表者である政治(議会)に間接責任を有しており、さらにより本質的には主権者である国民に対して直接責任を有しているといえる。このように理解すれば、FF論争を決着させる解がラスボスのように立ち現れるのではないだろうか。