第三十回(2020/12) 悪用された『自助論』

 今回は関西見聞録の番外編である。菅内閣のスタートから2か月が過ぎた。この陣容は前政権のボロ隠しのように見えて仕方がない。公務を私物化するモリカケ・サクラ疑惑はついに藪の中だ。新首相は「自助・共助・公助、そして絆」と述べて、とくに自己責任を強調する。「withコロナ」は無責任行政に適合しているのか。

 「自分でできることは基本的には自分でやる。自分ができなくなったら家族とかあるいは地域で協力してもらう。それでできなかったら必ず国が守ってくれる。そういう信頼をされる国、そうした国づくりというものを進めていきたい」(TBS「NEWS23」9月4日放映)。これを所信表明でも使った。

 そもそも自助は、イギリス人のサミュエル・スマイルズ『自助論』(Self-Help, 1859)による。300人余の成功談を集めた処世訓である。この名著は自分だけで完結する生き方を説教しているのではない。自助とは、一人で自力更生する通俗な身過ぎ世過ぎなどとは異なる。著名な序文「天は自ら助くる者を助く」《Heaven(God) helps those who help themselves.》は、ラテン語圏の古い諺である。他人に頼らず自立して励む者には、天の助けがあり必ず幸福になるという。

 これが示すように、「自ら助くる」ことには「天が助くる」ことが連なる。最も重要な理解だが、自助には必ず天助が伴う。では現代の「天」とは何か。いわば現世における地上の神であり、それは要するに「公共(public)」だろう。パブリックとは人々が共生し、ともに「天」を共有することだからだ。つまり天助=公助だ。自助(self-help)には、天助としての公助(public-help)が不可欠なのである。こうして自助は公助と親和する。これを受けて政治は、国民の暮らしを守るために公の責務を果たすことが使命になる。

 新首相は自助を俗論にすり変えた。『自助論』の真意とまったく別な文脈だ。政治本来の使命をないがしろにして、各人の努力だけを強要したい本音が浮かぶ。人生の大半を公金で過ごし公助にどっぷりと浸ってきている人物が、国民に対しては自助を説く。晩年に生き恥をさらさないためには、生涯にわたって学び続けることが大切だ。おべんちゃら朝食会などの学修では不充分である。