第八回(2019/02)幻の大坂幕府―ゆくゆくは御居城にも―

 幻の大坂幕府か。このほど大阪城天守閣の展示室が、本文1042字の書状を初公開した。市のHPによれば、書いた人は茶道の才人で、徳川の能吏とされた小堀遠州(こぼり・えんしゅう)だ。当時、幕府の作事奉行として大坂城の再建にあたっていた。

 書状は、工事中の寛永3年(1626年)に送られた。宛先は江戸にいる義父で、築城の名手として著名な藤堂高虎(とうどう・たかとら)である。かれは徳川大坂城では基本設計にあたる「縄張(なわばり)」を行った。

 書面では、城内の造園も担当した小堀が、藤堂に庭石の献上を勧めている。そのくだりで「大坂ハ、ゆくゆくハ御居城にも可被成所ニ御座候」と述べた。つまり、この城は将来的に将軍家の居城になるだろう。幕府の本拠地が江戸から大坂に移るとの見通しを記した。

 夏の陣から5年経って、2代将軍秀忠が大坂城の再築を発令した。着工は元和6年(1620年)、竣工は寛永6年(1629年)である。完成した城は、江戸城より「ずっと美しく、いっそう堅固」ともいう(『遠い崖―アーネスト・サトウ日記抄』)。石垣は根石から築きなおされ、豊臣の城は地中に埋まった。

 しかし城が再築された3年後に、指揮をとった秀忠が没した。その間、江戸幕府は移転の必要がないほどに安定し定着していった。結果として大坂幕府構想は幻のままで終わった。