第十六回(2019/10)三井寺考

 滋賀の大津にある三井寺(みいでら)は、天台寺門宗(てんだい・じもんしゅう)の総本山である。正式には長等山園城寺(ながらさん・おんじょうじ)という。広大な敷地はびわ湖南西の長等山の中腹にあたる。東大寺・興福寺・延暦寺と並んで「本朝四箇大寺(しかたいじ)」とされる名刹だ。

 672年の壬申の乱において、天智天皇の子の大友皇子は、先王の跡目を争って叔父の大海人皇子と戦い敗れた。大友の息子の与多王が、亡父の霊を弔うため「田園城邑(じょうゆう)」を寄進してこの寺を創建した。大海人は天武天皇となり、寺に「園城」という勅額をさずけた。これが園城寺の始まりである。

 寺のHPによれば、天智・天武・持統という三帝誕生のとき、産湯にした霊泉から「御井の寺」と呼ばれた。その後、智証大師円珍が、「三部灌頂」という法義に使ったため三井寺と言われた。いまは金堂西側にある「閼伽井屋」のわき水が御井である。円珍は859~877年にかけて、園城寺を天台別院として中興した。

 彼の没後に、円珍派は慈覚大師円仁派と激しく対立し、993年に比叡山から一斉に三井寺に入る。これで天台宗は分裂し、三井寺が寺門派、延暦寺が山門派とされた。その後、源平や南北朝の争乱などによる焼き討ちが続いた。あるとき武蔵坊弁慶は、三井の鐘を奪って比叡に引き摺り上げようとした。途中で当の鐘がイノー(帰る)と泣き叫んだので、怒ってこれを谷底に投げ捨てた。生々しい傷痕が今に残る「引き摺りの鐘」の由来だ。

 三井寺の鐘は、近江八景の「三井の晩鐘」としても有名である。美しい音色で日本3名鐘とされる癒しの音だ。金堂には本尊の秘仏・弥勒菩薩が祀られる。また、眼下にびわ湖をのぞむ観音堂は西国三十三所巡礼の礼所である。ちなみに天台宗には延暦寺・三井寺に加えて、三つ目の総本山として天台真盛宗西教寺(しんせいしゅう・さいきょうじ)がある。聖徳太子による創建とされ、明智光秀があつく信仰した古刹である。